粒沢らぼ。

当ブログでは現役生命科学系の研究者が、気になった論文を紹介したり、考えていることを共有したりしています。可能な限り意識を”低く”がモットー。たまに経済ネタとかも。
書いてる人:粒沢ツナ彦。本業は某バイオベンチャーで研究者をやっています。本名ではないです。
博士号(生命科学系)。時々演劇の脚本家、コント作家、YouTube動画編集者。アンチ竹中エバンジェリスト、ニワカ竹中ヘイゾロジスト。
Twitterアカウント:@TsubusawaBio←お仕事などの依頼もお気軽にこちらへ。

タグ:西野亮廣

enjin_business

ボランティアという言葉に本来無償でという意味はないんだけど、結果的に無償とか少ない報酬になってしまっても受け入れる、という意味合いは含んでいる。

オリンピックでもなんでも、

 

ボランティアという言葉は嫌いなのだけれど、まあそういう自発的なエネルギーに突き動かされた人たちによる協力をもって何かを作り上げたみたいなことは大事なのかもしれない。
演劇でもなんでも、そういうところがあるよね。
 

やろうとしていることの理念に納得してくれる物好きな人というのは時々いて、運良く協力体制を築けることも確かにあるのだ。

そういう人たちを、なんかオリンピックみたいに初めから当てにして無償労働が前提の体制を作るというのもまあどうかという気もするんだけど。

一方で、リスクのあることをやろうとする以上は少しでも多くの理念に共感してくれる「ボランティア精神の」協力者を作る必要があるだろうし、そうでない人や集団は長期的に見ても勝てないだろう。

 

そういえば西野亮廣のサロンとかいうのも話題になってたな。

ああいうの、西野の良さが微塵もわからない層にとっては何が楽しくて無償やノルマ込みでチケット売らされてるのか、って思うけど。

でも、一方で何かに協力したい!という思いを持った人というのは、個人主義だとか新自由主義だ、なんでも損得で考えて損なことはしませんみたいな時代においても、案外尽きることがないんだな。

人間の本質と言っても良いのかもしれない。

我々の祖先は集団での協力体制を取ることで厳しい自然の中で何百万年と生き延びてきたんだろうからなぁ。

 

無償での奉仕なんてくだらねえ、労働者の権利のためにも必要な報酬を出すべき、という最近よくみる論調には概ね賛成はする。

しかし、実際に組織を運営する立場からすると、「ボランティア精神」に協力者をたくさん集めて回していくという、まるで一つの宗教法人を運営する能力みたいなのが成功するためには必要なんだろうね。

dogeza_woman


西野亮廣に向かって、金を出してもらって土下座する東大博士課程の女子がいたという話題をネットでみました。

なんか、西野が許せないとかそういうことよりも、ただただ脱力感があります。

一体なんなんだこれは…という。

「拝金主義」とラベルを貼って額縁に入れて飾ればいいのでしょうか

 

世の中には、本来的にはお金や資材を持っている人と、労働力や技術を持っている人がいて、どちらが偉いと言う話でもなかったはずだと思うんですよ。

本来的には、ね。

ただ、お金を出せる人はどうしても現代では希少なので、価値が上がってしまっている、と言うだけのことです。

だってもし仮に「労働力や技術を持っている人がごく少数で、反対にお金をたくさん持っている人はいくらでも世の中に溢れている」みたいなことになったら、絶対に労働力や技術を持っている側が優位に立てるはずですよね。

 

たかがお金を出してもらうだけのことで土下座するとかそういう自体が発生してしまっているということ自体、何かが完全に間違っていると思いますね。

お金出してもらったらそりゃ感謝はするだろうけど、何も土下座なんてせんでもいいのに。

きっと立派な経歴に反して自己肯定感低い人なのだろうな。。

仮にやろうとしていることが本当に世の中のためになるなら(何しようとしてるのか知らんし興味もないけど)、西野以外にも応援したりお金出してくれる人がいると思うし。

 

労働力や技術を持っている我々が頑張るのは、もちろん我々自身のためでもあるけど、地域や社会を幸せにしたり、産業を振興することで国力を上げることで国のためになったりすることでもあります。

そうすると、結果的にお金を持っているあなたたちのメリットにもなるんですよいうのが本来、あるべき交渉の姿ではないかと思うんですよ。

それが新自由主義が当然視される世の中で忘れられてしまっているようにも思います。

 

お金を持っている人たちの住んでいる街や地域や国を良くしようと思わずに、自分たちの金銭的利益だけを求めていればいいというのが、新自由主義の基本となる考え方ですからね。
そういう道徳というか世の中になってしまっているのですから。

竹中平蔵とかもそうですけど、新自由主義というのは本当にどうにかならんのかい、という思いです。

(寝落ちてしまって遅刻してしまいましたが、1/20の記事です!) 

このページのトップヘ