ボランティアという言葉に本来無償でという意味はないんだけど、結果的に無償とか少ない報酬になってしまっても受け入れる、という意味合いは含んでいる。
オリンピックでもなんでも、
ボランティアという言葉は嫌いなのだけれど、まあそういう自発的なエネルギーに突き動かされた人たちによる協力をもって何かを作り上げたみたいなことは大事なのかもしれない。
演劇でもなんでも、そういうところがあるよね。
やろうとしていることの理念に納得してくれる物好きな人というのは時々いて、運良く協力体制を築けることも確かにあるのだ。
そういう人たちを、なんかオリンピックみたいに初めから当てにして無償労働が前提の体制を作るというのもまあどうかという気もするんだけど。
一方で、リスクのあることをやろうとする以上は少しでも多くの理念に共感してくれる「ボランティア精神の」協力者を作る必要があるだろうし、そうでない人や集団は長期的に見ても勝てないだろう。
そういえば西野亮廣のサロンとかいうのも話題になってたな。
ああいうの、西野の良さが微塵もわからない層にとっては何が楽しくて無償やノルマ込みでチケット売らされてるのか、って思うけど。
でも、一方で何かに協力したい!という思いを持った人というのは、個人主義だとか新自由主義だ、なんでも損得で考えて損なことはしませんみたいな時代においても、案外尽きることがないんだな。
人間の本質と言っても良いのかもしれない。
我々の祖先は集団での協力体制を取ることで厳しい自然の中で何百万年と生き延びてきたんだろうからなぁ。
無償での奉仕なんてくだらねえ、労働者の権利のためにも必要な報酬を出すべき、という最近よくみる論調には概ね賛成はする。
しかし、実際に組織を運営する立場からすると、「ボランティア精神」に協力者をたくさん集めて回していくという、まるで一つの宗教法人を運営する能力みたいなのが成功するためには必要なんだろうね。