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昨日の、コロナ禍で医者に批判が集まっている件について触れた際にも思ったけど、認知的不協和の解消というのは現代社会において非常に重要なテーマだ。

ネットやテレビなどを介して、良い生活や羨ましい目に遭っている人の話が途切れることなく流れ込んでくる時代だからね。

 

自分のやりたいことや欲しいものがあるのに現実の制約がかち合ってしまいそれが達成できないというのは、現実には非常によくあることだ。

だけど、その状態に耐えられないので人間はどうしても認知的不協和を解消する方向の認知を好んで採用してしまう。

認知が真実であるかどうかは関係なく、認知的不協和が解消できる話であれば、普通の人はみんな喜んで受け入れるのだ。

致し方ないところではある。

修行が足りないと言えばそれまでかもしれないが、一般大衆は修行僧などではないのだ。

 

しかし、昨今の医療に関する根拠のない言説でもそうだが、都合のいい認知を作るためにウソを広められたり事実と異なるレッテルを貼られるほうとしてはたまったものではない

それを煽ることで商売にしているような輩もいることは前回も触れた。

 

とはいえ、SNSの時代では、ウソだろうがなんだろうが人々の意識にのぼりやすい考え方はどんどん広まっていく。

その流れを止めることは事実上不可能だ。

たとえば医者に対する悪口や誤った根拠に基づく批判が問題だとしても、それらを全て根絶することは不可能だろう。

個人の自由が尊重される我が国では基本的に特定の意見を言う人の口を塞ぐことはできない。

仮に塞ぐことができたとしても別の形で噴出してくるだけだ。

 

せいぜい、明らかなウソを書かれた時には関係者の証言やデータで反論するくらいが関の山だ。

それだって、認知的不協和に取り憑かれて「見たいものしか見ない」相手には通じない。

言っても通じない相手は結局のところ無視するしかないのだ。

 

さらに厄介なことだが。
「認知的不協和に耐えられず事実と異なる内容を吹聴するやつらを黙らせたい」が、「日本には言論の自由があるので口を塞ぐことは原則不可能である」と言うことの不快感。

この状況自体が、非常に皮肉なことに認知的不協和なのだ

これを解消するために、「認知的不協和で事実と異なることを思い込むやつは知能が低い、下賤だ」などのような認知を自分自身にインストールする必要があるのだ。

 

ここで大事なことだが、「認知的不協和で事実と異なることを思い込むやつは知能が低い、下賤だ」という文章が事実であるかは、正直どうでもいいのだ。

ただ不快感が

悲しいし皮肉を感じるが、現代社会ではそれが最もマシな対処法だろう。

 

残念ながら、我々は認知的不協和から真の意味で逃れることはできないのだ…。