粒沢らぼ。

当ブログでは現役生命科学系の研究者が、気になった論文を紹介したり、考えていることを共有したりしています。可能な限り意識を”低く”がモットー。たまに経済ネタとかも。
書いてる人:粒沢ツナ彦。本業は某バイオベンチャーで研究者をやっています。本名ではないです。
博士号(生命科学系)。時々演劇の脚本家、コント作家、YouTube動画編集者。アンチ竹中エバンジェリスト、ニワカ竹中ヘイゾロジスト。
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カテゴリ: 演劇

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群馬大学医学部で、「医の倫理学」「医系の人間学」の講義を担当する
服部健司教授という人がいて、授業にインプロを取り入れるなど革新的な取り組みをしているらしい。

その一方で、その授業で単位を取れず留年する学生が多すぎるなどの問題が指摘されており、週刊文春の記事になったらしい。


週刊文春「学生は「アカハラだ」と悲鳴 群馬大医学部3年生「3分の1が留年」の異常事態」


インプロというのは台本のない即興の演劇で、単に自由に演技するだけではなく共演者の芝居に合わせることを要求される。

自分がこうしたい、という独りよがりではいけないのだ。


医療においては、医者は病気に詳しいから、診察をすれば医学的にはこういう治療をすべき、などということはわかるだろう。

だが、たとえば患者の抱えている問題によっては必ずしも医者の治療方針に同意しないことも考えられる。

患者が何を求めているかを探り、相手に合わせるという姿勢を作り上げるのに、おそらくインプロは正しく使えば意味があるのだろう。


推測に過ぎないが、インプロを導入していると言うのはそのあたりの課題感だと思う。

医師の中には、医学的な”正解”をゴリ押しして、標準治療や医師の方針に従わない患者をばかにするような人もいるからね。


実際に、服部教授の授業を知る人の中には、「厳しいけれどいい授業」「倫理的に問題のある人が落とされている」と言う人もいる。


togetter「群馬大学・服部健司の授業の評判は意外によかった事が判明」






ただ、そうした授業で出来が悪かったからといって学生を留年させ医師になることを阻止していいのか、という点や、合格・不合格の基準が不明確な授業で判断していいのか、という点は問題かもしれない。


医療の受益者である我々一般国民としては、正直なところ、いくら優秀でも倫理観に欠ける学生に医師になってほしくはない。

しかし、学生からすれば、医師国家試験を通過できず医師になれないというのならともかく、倫理観に問題があるから医師になれない、ということになれば、「話が違う」ということにもなるだろうね。


試験勉強が得意な医者の卵たちであっても、インプロのように、学術的に決まった正解のない表現活動の場合は、戸惑ってしまうという部分も大いにありそうだ。

(まさにその「一意に決まる正解のなさ」こそが教育上大事なところだろうけどね)


しかし、医の倫理学のようなフワッとしたテーマの舐められやすい(失礼)授業で、「どんだけ舐め腐ってても単位は来る」と思わせてしまったら、もとからインプロが趣味みたいな連中を除けば、誰も真剣にインプロをやらなくなるだろう。

真剣にやる方がアホくさく見えてしまう。


医学部生はプライド高そうだから、「俺たちは常にテストで満点近くとってきた医学部生様だぞ!将来は人の命を救うんだぞ!倫理学の講義みたいな、正解の決まらない、くだらないお遊びで留年させるなんて恥を知れ!」みたいに思っている医学部生も多分少なくないんだろうね。

この辺のさじ加減は難しいところだろうと思う。


少なくとも、「頑張らなくてもあなたたちに単位はあげますから」なんてヘコヘコやった日には「学級崩壊」間違いなしになることは容易に想像できる。

アカハラだのパワハラだの言われようと、服部教授には矜持と使命のために譲れない一線があるのだろうなというのは、わかる気がします。


結局この問題は、医学業界において権威を持っている他の偉い医者たちが、どっちを支持するかというので決まってくるんでしょうね。


群馬大学医学部はそれなりに彼の授業内容を感じたから服部教授を教員として採用しているはずですから、教授の立場を援護するように発言してくれたりするのかな。

でも、「こんなに留年させてたら群馬大学が受験生から不人気になってしまう」とか日和りだす教授もいるかもしれん。


服部教授のやり方を支持するにせよ支持しないにせよ、群馬大学医学部の他の教授たちは、どういうふうに思っているのかとても興味があるな。


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人が考えた物語を見るのは良い。


特に、1-2時間クラスの演劇だと、大抵は脚本を考えた人の価値観が透けて見えてくる。

何が正義で、何が悪か。

何が支持されて、何をするのはよくないこととされているのか。

それが面白いし、非常に参考になる。


具体的にいうと、他の人が「これは受け入れられる」「こういうのは良いよね」「こういう行為は支持されないよね」と感じていることは何なのかがわかるのが、面白い。


生きていく上では人は多かれ少なかれ、他人に支持されたり味方を作らないといけないのだ。

科学的に正しいとか金銭的に儲かるとか以上に、どうすれば味方が増えるのかについて考えなければならないこともある。

そのためには、心に響くストーリーが大事なのだ。


純粋にエンタメとして面白いか面白くないかだけで言えば、もしかしたら映画館でやっているようなちゃんとした映画の方がいいかもしれない。

特にハリウッド映画なら特殊効果やCGを使った派手な破壊シーンとかアクションシーンとかも楽しめるしね。

でも、そうした映画のストーリー自体は勧善懲悪だったりしてとても単純なことが多いし、今の自分にない新しい新たな価値観が入り込んでいることは稀だ。

多くの人によって間違いなく受け入れられてヒットするだろうと、さまざまなフィルタリングやお化粧が施された後ですし。

時には大資本とか大国の都合で、「普通の人々の本音」とは微妙にズレた物語になっていることもあるし。

まあ、それはそれで、何かの参考になることもあるけど。

でも、そういう加工や選別が行われる前の、生の市井の人の声みたいなのに近づけるのが、インディーズ的な作品の良いところなのではないかと思う。


インディーズ的な作品は、作っている側も悪い意味で浮世離れしたゲージュツ家ではなく、普通に働いてお金を稼いで苦労もしている一般の人であることが多い。

現代を生きている生身の人間なのだ。

そういう人の考える「今、発信したり制作したりする必要のある物語」というのは、こうなっているんだな、と肌で感じることができるんだよね。


昨日も某所でインディーズ系の演劇を見てきたけど(最近観劇もご無沙汰気味だな…)、そういうことを考えながら見たら色々と仕事にもつながる収穫があって、大変よかった。

最近忙しくてあまり行けてないけど、たまにはインプットをした方がいいな。


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先日の正直者達の公演の仕込みで釘を打っていたら、
干支が一回り以上下の若い人に「釘打ちうまいっすね」と褒められた

べつに上手くもないし普通だと思うのだけど、褒められたからなんとなく「昔の人だからね」と答えたらヤヤウケした。

自分の世代の大学生演劇ピーポーはやたらと木材使って複雑な舞台を仕込んだりしたから、無駄に日曜大工みたいなのが得意なのだ。

n寸釘がどれくらいの大きさか、とかも感覚的に覚えてるよ。


最近の学生たちはもっと効率的にやるぶん、無駄に木材とか釘とかを使わない舞台仕込みが定着していると聞く。

というかコロナ禍の2年はほとんど公演自体ができなかったのもあるかも。

そういうこともあって、昔ほどはナグリ(金づち)やノコギリはあまり使わないのかもしれないね。

あんましそのへんの実情は知らないけどね。


なんか、まるでWordPressが当たり前の世の中でhtmlベタ打ちしてる人みたいだよな。

あるいはキーボード入力が当たり前の世の中でタイプライター使える人みたいだ、と言ってもいい。

特に役に立つことはなくなったスキルを抱えたまま俺たちはオッサンになっていく。

それが俺たちの人生の履歴なのだ。


というか、よくよく考えてみると「昔の人だから」で冗談と取られてヤヤウケしてもらえるうちはまだいいんだよな。

いずれ真顔で「そうですね」とか言われるようになるに違いない。

その時は、名実共にまごうことなきおっさんになったということだ。

そうなったらガラスのハートにヒビが入っちゃうかもしれん。


優しくしてほしい




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なぜ、本業やら日々の生活やらで非常に忙しいのに、演劇(正直者達)の裏方を手伝うのか。

我が事ながら「その優先順位でいいの?」と思うこともある。


一つには仕事の息抜きの面もあるが、単なる息抜きなら他のことでもいいわけで。


突き詰めると、「無から有か生まれて、座組や観客に感情や気付きのウェーブが伝播するところを見たいからなのだな」と思う。

スタッフとして一緒に芝居を波が起きるところを、「原点」から特等席で見られる、という特権を手放したくないのだね。


基本的に、脚本家のやっていることは究極的にはシンプルだ。

脳内の考えを外に出す。

それが他の人にとっても面白いから、演劇として成立するのだ。


正直者達の脚本は、ふつうなら「こんなものを出してもバカバカしすぎて誰にも興味を持たれないんじゃないか」あるいは「社会の常識とかけはなれすぎているから怒られるんじゃないか」と思うような内容だ。

だが、サミゾノ以下、正直者達のメンバーはそんな足枷を軽々と外しているように見える。

簡単にみえて、すごいことだな。


そして、(正直者達の公演感想ツイートを見てもらえばわかるとおり)それが届く相手(観客)というのはちゃんといるのだ。


ついつい難しく考えて、こんなものを世に出しても仕方ないとか、もっと良いものができたらとか、ハードルを上げてしまいがちな自分にとっては、背中を押してくれる思いがあるね。

そういうの、ほんとにヘタクソだからなあ自分は。


まったく、アウトプットの大切さについて、痛感させられる毎日だ。

もっと早く気づけていれば、なおよかったんだけどな。





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”正直者達”の公演のために新宿の
シアターミラクルに小屋入りしている。

シアターミラクルはいわゆる雑居ビルの4階にある劇場なのだが、同じビルの1階にはケバブ屋さんが入っている


ケバブ評論家ではないので、ケバブ屋の中での良し悪しは知らないのだが、とにかくそこのケバブは公演中に一回は食べたくなる。

肉によくからむソースがピリ辛でうまい。

キャベツもたっぷりで体にも良い。

ピタパンに肉と野菜を挟んで食う。それだけ。ケバブサンド300円。

コスパ良いね。


昨日は4階の劇場内にいるのに、1階のケバブ屋のピリ辛ソースの匂いがした気がした。

幻覚だったのだろうか。

それとも誰かがこっそりおやつに買ってきて楽屋で食べていたのだろうか。

謎は深まるばかりだ。

謎は謎として、とりあえず空腹が刺激されたので、一階のケバブ屋に向かった。


店員さんが、店舗内に3人もいる

なに人かわからないが、外国人の、男らしくてたくましくかっこいい若い男性たちだ。

それにしても、テイクアウトのみの屋台みたいな営業形態で3人も店員がいるというのは、あまりみない気がする。

そういえば、海外では複数の店員で役割分担して店舗を回すのが当たり前らしい、と聞いたことがある。

調理・提供・会計の全てを店員ひとりのワンオペ低給与で回してコストカットする、日本でよく見るビジネス文化には染まらないということなのかもしれない。

いや知らんけど。


そういえば、今回の正直者達の公演にも、低賃金や長時間労働でこきつかわれる労働者を題材にしたコントがあるのだった。

社会人としての怒りと悲しみを皮肉的に表現しているのです。多分ね。

結果的にだけど、他ではあまりみない唯一無二の表現が爆誕していると思う。


そんなこんなで、明日までの公演「9.9発目 いじわるver.0」にきてくれる人は大歓迎だし、今からは予定あって無理な人も一度は新宿歌舞伎町までケバブを食べにきてちょうだい。


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